大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

浦和地方裁判所 昭和34年(わ)351号 判決 1960年2月19日

被告人 中久喜正平

大四・一二・二五生 無職

主文

被告人を死刑に処する。

押収にかかる一升瓶一本、四合瓶一本、みそこし一個(昭和三四年押一一三号の六ないし八)、罐詰の空罐一個(同押号の一七)、破損した匙の頭一個(同押号の二二)、茶碗一個(同押号の二三)、風呂敷二枚(同押号の二六)、着物(半天)一枚(同押号の二七)、晒一枚(同押号の二八)、飯盒一個、竹箸一膳、タオル一本、晒端切一枚、粉末ピラミサン一袋、粉末正効散一袋、貼り薬ギンパス一袋(同押号の三二ないし三八)は、これを被害者中村角十郎及び同中村な津の相続人に還付する。

理由

(罪となるべき事実)

一、被告人の経歴

被告人は大正四年一二月二五日、農家の四男として生まれ、尋常高等小学校を卒業後引き続いて漢学の先生の経営する私塾に通い、一七歳の昭和八年一二月一日現役志願して水戸歩兵二聯隊に入隊し、昭和一七年九月一五日陸軍准尉の当時、用兵器上官傷害(上官侮辱)罪によつて禁錮三年に処せられるまでの間、軍隊生活をおくり、支那大陸の戦闘にも参加したが、右刑を受けたことによつて軍隊から離れ、昭和一九年三月頃まで巣鴨刑務所において服役した、出所後は、特務機関関係で砂糖、阿片の買いつけなどの仕事を約一〇ヶ月間した後、昭和二〇年五月頃実兄の世話で農家の娘と結婚し、暫らくの間百姓仕事をしていたが、同年一二月頃遊休物資活用協会に入つて軍物資の摘発などをしているうち詐欺罪に問われ、昭和二二年四月一日長野区裁判所において懲役一年六月に処せられて、昭和二三年二月七日仮釈放になり、その頃妻と離婚した、その後は、亜炭山の経営に手を出したり、牛預り所の手伝をしたりしたがいずれもうまくゆかず、米の闇屋をはじめたが、その当時である昭和二十四年頃、闇屋仲間に世話をされて女家族の娘と事実上の婿入りの形で同棲し、その母から金を借りて薄荷苗の栽培を始めたが失敗したためその家から出て、土地建物のブローカーの手伝いをし、その間、間借先の娘と同棲したものの、昭和二八年九月頃、土地建物ブローカーの手伝いも止めると共に、女と別れて間借先を出ることになり、百姓仕事の手伝いなどをし、昭和三〇年一〇月頃埼玉県上尾市大字原市四、二九三番地川瀬源吉方を訪れて、住み込みの農業手伝いとなつたが、時々、同人方を暫くの間、立ち去ることもあつた。

二、犯罪事実

被告人は、昭和三四年三月頃から大宮市の飲食店で働いていた進藤治子(昭和一二年二月二四日生)と自分は大蔵省に勤務している者だといつて交際しているうちに互に結婚を考えるようになつたので、同月二一日頃治子と共に深谷市にある治子の実家に行き、約一月間、治子と同棲生活を送つたが、家族の者との折合いが悪かつたため、治子を伴つて深谷から本庄に行き暫らく旅館生活をしたものの、両名の所持金が乏しくなつたので、実家へ行くと称し、途中一晩だけ知り合いの家に泊めて貰うといつて治子を川瀬方に連れ帰つた。

川瀬方では納屋隅の一坪ばかりの仕事場に二人で起居するようになつたが、治子に対しては実家から間もなく迎えにくるからそれまでここで待つようにといつて欺き、自らは田畑の仕事をし、治子は主として家事を手伝つていたが、次第に川瀬源吉やその妻さわから冷遇されるようになり、治子からは、頻りに被告人の実家へ行きたいと訴えられるに及んで、治子を伴つて茨城県結城郡にある実家へ行こうと思い、そのために必要な金を手に入れようと考えた。そこで同年五月下旬と六月上旬に「麦上げ」「麦おこし」の手伝に行つたことがあり上尾市大字原市四、一六五番地に夫婦二人だけで暮していた中村角十郎(当七〇年)が前に千円の金を貸してくれたこともあり、二千や三千の金はいくらでも都合してやる、そのかわりに仕事に来てくれよ、などといわれたことがあつたことを覚えていたので、同人に頼んで都合して貰い、その金を旅費にして川瀬方を出ようと思い、治子には、迎えの車がくるが、ここからでは都合が悪いからといつて納得させ、同年六月二三日の未明に前夜纒めた衣類等の荷物を持つて無断で川瀬方を脱けだした。被告人は、川瀬方を無断で出て来たため、日中は人目にふれることをおそれて治子と共に大宮市砂町二三八四番地所在、通称「向山」という松林内に入つて日没を待ち、そこに治子を待たせておき同日午後九時頃、前記中村角十郎方に赴き、同人に対し、金を貸して貰いたい旨頼んだところこれを拒絶されたことから、同人及び妻な津(当時七一年)を殺害して金品を強取しようと決意し、同人等に反抗されたり騒がれたりすることをおそれて、所持していた睡眠薬「バラミン」錠を「この間話していた薬を持つて来た」などと言葉巧みに右両名に各一錠あて服用させ、同人等が眠むつたのを見届けた後、同日午後一一時頃、屋内にあつた薪割り(昭和三四年押一一三号の三は、その鉄部)の峯で睡眠中の右角十郎の頭部を横打ちに二回殴打し、ついで、同様睡眠中の右な津の頸部をその場にあつた作業用前掛(前同押号の一)の紐を二重に廻して絞扼し、さらに右角十郎の頸部を同様その場にあつた黒木綿三尺帯(同押号の二)で絞扼し、よつて、間もなく右両名を右絞扼による窒息のため各死亡するに至らしめたうえ、同人等所有の現金七、二八〇円、二級清酒約三合入り一升瓶一本(前同押号の六はその瓶)、したじ約二合入りの四合瓶一本(同押号の七はその瓶)、みそこし一個(同押号の八)、鯛味噌の若干入つた罐一個(同押号の一七はその罐)、茶碗一個(同押号の二三)、風呂敷二枚(同押号の二六)、半天一枚(同押号の二七)、晒一枚(同押号の二八及び三五)、砂糖若干及び匙入り飯盒一個(飯盒は同押号の三二、同二二は小匙の頭)、竹箸一膳、タオル一本(同押号の三三、三四)、粉末ピラミサン一袋、粉末正効散一袋、貼り薬ギンパス一袋(同押号の三六ないし三八)等を強取したうえ、右犯跡を隠すため、同月二四日午前〇時頃同家四畳間に新聞紙及び草履屑などを積み重ねてマツチをもつてこれに点火して火を放ち、人の現在しない同家居宅木造平家建一棟二六坪を全焼させて焼燬すると共に、右角十郎及びな津の死体を火熱により損壊したものである。

(証拠の標目)(略)

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、本件犯行当時被告人が心神耗弱の状態にあつたと主張するので、この点について判断する。

鑑定人高橋角次郎の鑑定書によれば、被告人には本来的精神疾患――例えば、精神分裂病、躁うつ病、神経症、症状性精神病、てんかん等――は存在せず、本件犯行当時も現在も、梅毒に罹患しているけれども、進行麻痺にかかつてはいないのであつて、本病による精神症状はなんら認められず、要するに現在における精神状態は多少の情動麻痺、反応性不安が存在するが特に重大な精神障碍は認められず本件犯行当時の精神状態はほぼ正常に近い状態にあつたことが認められる。尚犯行直前の飲酒、睡眠剤の服用にしても、その事実の有無、分量等が被告人のいうとおりであつたとしても、これが、被告人の思考能力、判断能力に殆んどなんらの影響をも及ぼしていないことが窺われる、又、被告人の当公廷における供述態度及びその内容からみても、これらに異常な点は認められず、却つて、本件犯行及びその後の行動等をみるときは、終始綿密な計画のもとに適確に事がはこばれ、異常とみられるような破綻は全くこれを示していないのである。以上のとおりであるから、被告人が本件犯行当時心神耗弱の状態にあつたものと認めることはできないので、弁護人の主張は理由がないものとしてこれを採用しない。

(法令の適用)

各強盗殺人の点につき、それぞれ刑法二四〇条後段(いずれも死刑選択)、非現住建物放火の点につき同法一〇九条一項、死体損壊の点につき、同法一九〇条、後の二罪につき同法五四条一項前段一〇条(非現住建造物放火罪の刑に従う)、併合罪の点につき、刑法四五条前段四六条一項一〇条(中村角十郎に対する強盗殺人罪の刑により処断)、訴訟費用につき刑訴法一八一条一項但書(免除)、賍物の還付につき同法三四七条一項

最後に、量刑について若干、当裁判所の見解を述べる。

本件犯行の前後に亘つて、被告人の責任を考えると、残虐な本件犯行の態様、むしろ恩義を感じなければならない被害者等に対して、冷たい、そして残忍な計算のもとに、全く正確に悲惨な死を以て報いたその強度の反倫理性、ある意味では被害者ともいうべき内妻であつた進藤治子に、あるいは、数年間に亘つて自己の面倒をみて貰つたことのある川瀬さわに、自らの罪責の一端を負わしめようとして根拠のない事実を述べて、些も自己の罪に対する真摯なる反省、悔悟をしない、その非人間性等はこれを重視せざるを得ないので、以上の諸点は被告人に対して、極めて重任を負担せしめるに足る根拠になると思うのである。

その他、右被告人の責任を左右するに足る情状も、これを認めることができないので、被告人に対し死刑を科することとする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 大中俊夫 田中寿夫 大関隆夫)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例